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武将談義2『武』を継ぐもの~上杉鷹山~

すごく久々の正拳コラムです。

その後の上杉家

 私の大好きな戦国武将、傾奇者の前田慶次が尊敬し慕う莫逆の友に直江兼続がいます。上杉景勝の右腕として活躍した兼続もまた、幼き頃より上杉謙信公の薫陶を受けた一人でした。彼の才能と実力、「武」に惚れ込んだ豊臣秀吉は、幾度となく家臣に迎えようと破格の待遇を用意しますが、ことごとく振られてしまいます。
 その忠誠心に益々惚れた秀吉は、上杉家のいち家臣でありながら米沢30万石を与え、大名並みの扱いをしました。

 秀吉の死後、徳川家康は、豊臣方の有力大名に圧力をかけ、上杉家にも武装解除して敵対行為をやめるよう使者を出します。ところが兼続は、武の鍛錬は武士の嗜みで、とやかく言われる筋合いではないと家康に反駁の手紙を出しました。これが戦国時代最高の外交文書と評される「直江状」です。これに怒った家康は、上杉討伐のため東に兵を進めます。

 実は直江状は、家康をおびき出し引きつけたところで西軍が立ち上がり、上杉軍と西軍とで挟み打ちにしようと云う石田三成へのメッセージ説があります。ところが才ありて武のない石田三成は、兼続の禅問答が分からず、我慢しきれずに決起、踵を返した徳川家康と関ヶ原で戦い破れてしまいました。

 上杉家は、家康と戦わなかったため何とか取り潰しは免れましたが越後120万石は没収。上杉家と六千もの家臣団、謙信公の遺徳を慕う多くの領民たちが残された領地、兼続の米沢30万石へと移り住みます。景勝は、家臣だれひとりリストラしない方針を打ち立てました。こうして120万石から30万石となった上杉家と家臣たちは、極貧生活へと突入していきます。私の大好きな前田慶次もまた兼続を慕い、他の大名たちの誘いを断って米沢に移り住みました。

 こうして上杉家の苦難の道が始まったのです。

上杉家の再興

 上杉家は八代藩主・重定(しげさだ)の頃には借財が20万両(約200億円)まで膨れ上がり、重定は藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと悩んだほどです。そんな折、財政破綻の上杉家を立て直すべく名君が現れました。

上杉治憲(はるのり)、後の上杉鷹山(ようざん)です。

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 重定の次女、幸姫(よしひめ)の婿養子となり九代目藩主となった鷹山は、抵抗勢力と政争しながら奥女中を50人から9人に減らすなど徹底した倹約を断行。藩士・農民へ倹約を奨励し、自らも質素な生活を旨として粥を食べるなどし、領民たちのために非常食の備蓄も行います。
 また、産業に明るい竹俣当綱(たけのまた まさつな)や財政に明るい莅戸善政(のぞき よしまさ)はじめ、家柄にかかわらず有能な家臣を抜擢して行政改革をすすめる一方、廃校になっていた学問所「興譲館」を再興させて、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせるなど、藩を背負う人材育成に努めました。こうして米沢藩は、一歩また一歩と財政改革していきます。

天明の大飢饉

 1782年、日本は未曽有の危機「天明の大飢饉」にみまわれます。立て続けに岩木山、浅間山が噴火。火山灰が日本全土を覆って日光を遮り冷害が発生、これが異常気象と重なって大凶作が続き、さらに疫病も蔓延します。

『在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて』

と、記されたほどの惨劇で、弘前藩で8万、盛岡藩で7万5千人もの餓死者が出るなど、東北を中心に全国で90万人、一説に日本国民の5%もの人々が亡くなったとも云われます。

 このように東北諸藩が壊滅的な状況に陥る中、上杉鷹山の治める貧しかった米沢藩は、なんと一人の餓死者を出すことなく「天明の大飢饉」を乗り越えるのです。まさに奇跡でした。

 また鷹山は、妻・幸姫を大切にしたのですが…、実は幸姫は、心身の発達障がいでした。30歳にして亡くなった姫の子供のような小さな衣服と遺品より、初めて娘の障がいを知った重定は、何も言わずに幸姫を娶り愛しんできた鷹山に涙します。

 その後、鷹山は米沢藩の改革の道筋ができると35歳の若さで隠居し、家督を前藩主で義父・重定の子・治広に譲り、一歩退いて藩政をサポートしました。

 生涯、妻帯しなかった謙信公と発達障がいの妻を娶った鷹山、家督を兄の子に継がせた謙信公と、義父の実子に継がせた鷹山。私心なく、野心なく、無欲どこまでも澄み切った聖人のような二人の『武』が私の中で重なり合います。

 鷹山は、藩祖;上杉謙信公の生き様を手本としたのではないでしょうか。いや、もしかしたら上杉家再興と天明の大飢饉から領民を守るために謙信公が生まれ変わってきたのかもしれません。

 謙信公の『武』を継ぐ名君。後年、この手腕と生き様をして、J.F.ケネディ米大統領は「最も尊敬する政治家」として、日本人の記憶から忘れられていた上杉鷹山の名を挙げて話題となりました。

『なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』
上杉鷹山 談

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 先輩から興味深い話をきました。
「不景気では上杉鷹山の本が売れ、好景気には秀吉の本がよく売れるんだよね。」

 と、云うことで次回は、無欲どこまでも澄みわたる謙信公/鷹山と対極をなす、野心ありて清濁併せ呑む豊臣秀吉の「武」について述べたいと思います。

武将談義1『毘の旗印』が意味するもの~上杉謙信~

 先日、インターネットのニュースで、我が愛媛県が『校内暴力』の発生率が全都道府県で最も低く、同時に不登校も少なく、学力は上位グループであることを知りました。『校内暴力』発生件数の全国平均は小中高校生1000人あたり4.53件に対し、なんと愛媛県は0.56件とナンバーワンです。これは武道が盛んな土地柄なのも大きな要因でしょうか。

まさに「アイラブ 愛媛!」です。

 それでは新春の正拳コラムを、武将談義シリーズからスタートいたします。

 これはコラムというより私が先輩諸氏との武将談義で教えて頂いたことのご紹介で、皆さまが武将の生き様から様々な『武』を受け取って頂けたらと考えました、押忍!

 第一弾は「越後の虎」こと長尾景虎、後の上杉謙信公です。
私の大好きな武将、傾奇者の前田慶次の莫逆の友、直江兼続が慕い模範とした上杉謙信公とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?

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 謙信は、越後守護代:長尾為景の四男として生まれました。時まさに戦国時代。侵略してくる隣国、謀反を起こし争う家臣、一族の権力争い。家督を継いだ兄は文化人で戦に向いていません。そこで部下たちは、智仁勇を備えた謙信公に期待するのですが…、当の本人は武将になるつもりはなく、仏道に生きたいと切願して幾度となく家を飛び出して出家するのでした。

 しかし部下たちはその都度、
「お戻りください。上杉家を、越後の民をお守りください。」と懇願し連れ戻すのです。

「俺は仏道に生きることが許されないのか。殺生を避けられないのか。」
謙信は、戦国時代に武将の家に生まれた自分の運命を呪います。そして苦しみ抜いた揚句、謙信公が出した結論は

『大義正義ある戦しかしない。』

 謙信公は、兄に代わって家督を継ぐも兄の長男を跡継ぎとして養子に迎え、自らは出家僧として妻帯せず、争いを避けるために子供を作ろうとしません。また旗印は、黒地に白抜きの「毘」の文字としました。これは仏教の戦いの神、毘沙門天にあやかったものです。

 謙信の戦い方は、他の武将とは一線を画していました。

 他の武将が天下を狙い領土を拡大しようと軍師を抱えて策略の限りを尽くす一方、謙信は独り何日も何十日も毘沙門堂にこもって一心不乱に毘沙門天に祈りを捧げ、幾度となく自問自答するのです。

「この戦さに大義ありや?正義ありや?」
「毘沙門天よ、越後の民を守り救いたまえ!」

 祈り極まった謙信公は、まるで神懸かったような状態で出陣、その雄姿は清廉にして凛。まさに戦さの神、毘沙門天の軍勢の様相だったそうです。いつしか争っていた家臣たちも、どこまでも清涼で透き通った威厳ある謙信公を信奉していきます。
こうして野心入り乱れる戦国の世に、無敵の上杉軍団「毘」の旗が駆け巡ることになるのです。

 上杉謙信公の最大の戦さは、風林火山で有名な武田信玄との川中島の戦いです。

 謙信は、敵陣奥く深く摺鉢山(すりばちやま)に陣を構えて信玄と対峙しました。
戦の定石を無視した常識では考えられない禅問答のような作戦?に、武田信玄は上杉謙信の意図をはかりかねて警戒し、何十日も対峙し続けました。

 そして信玄は、天才軍師と云われた山本勘助による「啄木鳥(きつつき)戦法」を採用するのです。

 これはキツツキが木の側面を突いて虫を穴から出して食べるように、別働隊が側面から攻撃を仕掛け、山から下りてきた上杉軍を本隊が襲う作戦です。

 前日、謙信は敵陣から立ちのぼる煙が何時もより僅かに多いことに気づき
「明日、信玄が攻撃を仕掛けてくる!」と、瞬時に敵の作戦のすべてを悟るのです。まさに毘沙門天の天啓でしょうか。

 そして謙信は、馬の蹄に藁わ履かせて音が出ないようにし、全軍、静寂のまま夜陰に紛れて山を下って千曲川を渡り、信玄の本陣へと迫るのです。更に天も味方したのか、濃霧が発生して上杉軍の行動を隠します。

 このシーンは頼山陽の漢詩「川中島」の有名なフレーズ「鞭声粛粛 夜河を過る」(べんせいしゅくしゅく よるわかをわたる)で有名です。

https://goo.gl/RgnHDU

 早朝、信玄は作戦を決行、別働隊が側面攻撃を仕掛けるも敵陣には誰もいません。そして、朝靄の中から忽然と目の前に姿を現した「毘の旗印」の軍勢に武田軍は大混乱。謙信は馬上から直接、信玄に一撃を加えると越後へと去っていきます。そして信玄は、弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次など、多くの名だたる家臣たちを失ってしまいます。

武田信玄の完敗でした。

 人によっては謙信が越後に撤退したから引き分け、直接対決で一撃を加えるも打ち損じて謙信は逃げた、越後に逃げ帰った上杉軍の負けと評します。また、六十数度も戦い無敗で勝ち続けながらも領土勢力が全く拡大しないと、謙信の能力や政治手腕を疑問視する学者もいます。

 しかし、そもそも謙信公は、領土を拡大するなど一切の私欲や野望などなく、ただただ正義大義のためのみに戦ってきた仏道に生きる武将です。これを理解せずして一般的な価値観で異質の武将:謙信公を評価することは出来ません。

 また、武田信玄はじめ謙信公と戦いを繰り広げてきた近隣の戦国武将たちは跡継ぎに遺言を残しました。

「窮地に陥ったら上杉を、謙信公を頼れ」と。

 そして、ついに無敗の謙信は、足利将軍の要請で織田信長討伐の遠征を決断。最も恐れていた最強の敵に、さすがの信長も震撼します。ところが謙信公は、出陣直後に脳梗塞で馬上から落ちて亡くなり、信長と相まみえることはありませんでした。

 その後、大義正義の戦いを貫いた上杉謙信公の遺徳は、上杉景勝や直江兼続、そして上杉鷹山へと受け継がれていきます。戦国の世において聖職者ともいうべき異質の武将:上杉謙信公から、皆さまはどのような『武』を受け取りましたか?

 次の正拳コラムでは、謙信公の『武』を受け継いだ上杉鷹山をご紹介したいと思います。

PS.
掃除でノートパソコンを落として壊してしまい、代わりに正拳コラムを加筆修正してアップしてくれた先輩、ありがとうございました。

アイラブ 松山、アイラブ 宇和島、アイラブ 愛媛!

年末ショートコラムです^ ^

 今年も様々ありましたが、中でもスリランカに海外支部を設立して、南アジアでの活動拠点にしたのは大きな出来事の一つでした。
 また海外進出に際し「空手道 高見空手」から「日本空手道 高見空手」に変えたことは皆さまご存知の通りです。

 理由は以前、触れたようにスリランカ道場生たちが「日本の空手道を学びたい!」と、あくまで「日本」という国に拘っていたこと。
 そして、お世話になってる先輩から
『グローバル化する程に重要になってくるのがローカライゼーションで国や地域の個性が重要。空手もオリンピック競技に採用されるなど世界のカラテになった今、逆に[日本の空手]を強調するのがよいのでは。』と、アドバイスを頂いたことです。

 グローバル化(文化/価値観の同質化)が進むほど、ローカライゼーション(地方の特性や独自性)を打ち出さないといけません。また日本通の海外の方など、グローバル化の進む東京はじめ都会よりも、日本らしさの残る、日本の原風景ある地方に魅力を感じるそうです。

 ちょっと話は変わりますが、世界のさまざま所でグローバル化の波と地域の独自文化/価値観が衝突して要らぬ争いも起こっています。スリランカに行った南予地区の中里師範のように、異なる文化/価値観を受け入れて楽しむだけの腹と余裕があったら、「みそ汁は赤味噌よ」「いや白味噌だ!」という夫婦喧嘩から、国家間の争いまで減ると思うのですが…。

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 閑話休題、インターネットや交通機関の発達により、地方に居ながらにして世界にローカライゼーションを情報発信/活動できるようになりました。

 実は、本部と直轄道場では稽古の最初に英語の道場訓を唱和しております。その後の基本稽古が始まるまでの柔軟体操は、英語で行なっております。これは、道場生に海外の方がおられることや、指導員は海外の方が来られても対応が出来るようにとの考えで始めました。

 高見空手も愛媛県のローカル団体ながら、世界に向かって武士道/空手道を発信し活動していますから^ ^

高見空手一門は郷土に自信と誇りをもって、益々、空手道に邁進しましょう!

アイラブ松山、アイラブ宇和島、アイラブ愛媛!

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本年もいろいろとお世話になり、ありがとうございました。
皆さまから教えていただいたことや学んだことを来年に活かせるよう努め、更なる飛躍に向けてより一層の精進努力をいたします。
来年も変わらぬご指導くださいますようお願い申し上げます。
どうぞ良いお年をお迎えください。

高見彰 押忍!

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無常迅速(むじょうじんそく)の教え

 最近、ある出会いがありました。

お世話になっている方と飲食店で歓談していた時、見知らぬスーツ姿の紳士から話しかけられました。

『もしや空手の高見先生ではありませんか?』

聞けばこの方は、ある建築教育団体の支部長で、高見空手サイト『正拳コラム』を楽しく読まれているそうです。

 また、先日も極真時代の先輩で今はカンボジアでお仕事をされている方とお会いした時、『正拳コラム、読んでるよ!』と、言われました。皆さまにお読み頂くことは、恥ずかしさもありますが、たいへん光栄で嬉しく思います。ありがとうございます。

 このコラムは、USA大山空手の内弟子時代に課せられた読書、先生方や先輩諸兄からご教授して頂いたこと、また私の稚拙な文書を校正してくださる古くからの先輩など、多くの方々のお力添えに支えられたものです。

 この場をお借りしてご人尽いただいている皆様に厚く御礼申し上げます。
ありがうございます 押忍!
 

無常迅速(むじょうじんそく)の教え

 昨年、スリランカからの空手指導の招聘にどうするか悩んでいた時、背中を押してくださった先輩に教えて頂いた言葉があります。

『 無常迅速 』

 今回の正拳コラムは、私がスリランカ行きを決心した、この言葉をご紹介させていただきます。

生死事大 (しょうじじだい)
光陰可惜 (こういんおしむべし)
無常迅速 (むじょうじんそく)
時不待人 (ときひとをまたず)

 これは坐禅堂の「板木はんぎ」に書かれている出典不明の修行僧に向けられたメッセージで、私の稚拙な意訳で申し訳ないですが次の意味があると思います。

どう生きてどう死ぬかは大事である
限られた人生の時間を惜しめ
死はすぐにやってくる
時間は人生を待たないのだ

 昔の修行僧たちは『無常迅速』を胸に、一刻たりとも無駄にせず寸暇を惜しんで修行研鑽していました。また『無常迅速』ほどに厳しい言葉ではありませんが、近い意味で次の言葉を思い浮かべる方も多いかと思います。

少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
いまだ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉すでに秋風

あと『いのち短し 恋せよ乙女♪』も近いニュアンスでしょうか?(笑)

かく云う私は『 無常迅速 』から、織田信長が好んだ『敦盛(能)』の有名な一節を思い出しました。

人間50年
化天のうちをくらぶれば
夢幻のごとくなり

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※これは源平合戦で若武者・平敦盛をやむを得なく討ち取った熊谷直実が出家して世をはかなむシーンの一節です。

ものすごく大袈裟になりますが(汗)、
『無常迅速』から私は、人生の限られた時間の中で私(高見空手)に何が出来るか、やれることは何でも積極的に前向きに取り組んでいこう!と思って、昨年、スリランカ行きを決断した次第です。

 古(いにしえ)の修行僧には遠く及ばないものの、私たち高見空手一門は『無常迅速』を胸に、限りある人生の時間を大切にして、実り多き人生を送りたいものです。特に学生たちは、遊惰・安逸に流されてムダな時間を過ごして勉強や稽古が疎かにならないよう、時間を大切に寸暇を惜しんで刻苦勉励・精進努力、充実した日々を送ってください。

学生時代、夢幻のごとくなり
無常迅速、すぐに試験はやってくる
秋風の吹く、寂しい成績にならぬよう
日々鍛練を宗とせよ

高見彰 押忍!

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と、いうことで今年もスリランカに行ってまいります。

正拳、まず心より学べ!

ショートコラムです。

 前回の大和撫子コラムで紹介した武士道マンガにも掲載されていましたが、皆様は、島田虎之助をご存知でしょうか?

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 島田虎之助(1983~1852)は、男谷信友、大石進とともに幕末の三剣士といわれた剣豪であり、若き日の勝海舟の師でもあります。虎之助は、九州中津の出身で、10歳から剣術を学び、15歳にして藩内で相手がいないほどの腕前。
 また、剣術以外にも広瀬淡窓(ひろせたんそう)に儒教を学び、臨済宗の仙厓義梵(せんがいぎぼん)を始めとする高僧に禅を学びました。

 その後、虎之助は、江戸に出て直心影流剣術の男谷信友の内弟子となって剣術修行、その傍ら鈴木清兵衛の道場にも通って起倒流柔術(講道館柔道の源流)も学びます。
 後の山岡鉄舟に先掛けて、「剣」「禅」「儒」を極めていく島田虎之助でしたが、残念なことに若干39歳の若さで病没してしまいます。

 そんな島田虎之助が残した有名な言葉

『 其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。 』

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 惚れ惚れする程、カッコいいですよね!

 勝海舟の「無偏無党、王道堂々たり矣」には、師である島田虎之助の教えがあることは言うまでもありません。

 まず心から学べ! 自らの感情に振り回されず、悪しき欲望/誘惑に負けない心。今更ながらUSA大山空手の内弟子時代に大山泰彦最高師範に幾度となく言われた言葉

『心をコントロールするのが空手道だ!』

が心に響きます。押忍!

 そして「剣」を「拳」に置き換えれば空手道の「正拳(正しい拳)」。われわれ高見空手一門も島田虎之助の教えを心に刻み、武の道を邁進したいと思います。

其れ拳は心なり。心正しからざれば、拳又正しからず。すべからく拳を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。

『 正拳、まず心より学べ! 』

高見彰 押忍!

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To master "Ken", you must master your mind first.
"Ken" is the mind in the first place.
When the mind is not right, "Ken" is not right, either.
Anyone who wishes to master "Seiken" must master his own mind first.

In honor of a great Samurai, Toranosuke SHIMADA, I wrote this down.
July 7, 2018
Akira Takami

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