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武将談義その1『毘の旗印が意味するもの』

 先日、インターネットのニュースで、我が愛媛県が『校内暴力』の発生率が全都道府県で最も低く、同時に不登校も少なく、学力は上位グループであることを知りました。『校内暴力』発生件数の全国平均は小中高校生1000人あたり4.53件に対し、なんと愛媛県は0.56件とナンバーワンです。これは武道が盛んな土地柄なのも大きな要因でしょうか。

まさに「アイラブ 愛媛!」です。

 それでは新春の正拳コラムを、武将談義シリーズからスタートいたします。

 これはコラムというより私が先輩諸氏との武将談義で教えて頂いたことのご紹介で、皆さまが武将の生き様から様々な『武』を受け取って頂けたらと考えました、押忍!

 第一弾は「越後の虎」こと長尾景虎、後の上杉謙信公です。
私の大好きな武将、傾奇者の前田慶次の莫逆の友、直江兼続が慕い模範とした上杉謙信公とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?

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 謙信は、越後守護代:長尾為景の四男として生まれました。時まさに戦国時代。侵略してくる隣国、謀反を起こし争う家臣、一族の権力争い。家督を継いだ兄は文化人で戦に向いていません。そこで部下たちは、智仁勇を備えた謙信公に期待するのですが…、当の本人は武将になるつもりはなく、仏道に生きたいと切願して幾度となく家を飛び出して出家するのでした。

 しかし部下たちはその都度、
「お戻りください。上杉家を、越後の民をお守りください。」と懇願し連れ戻すのです。

「俺は仏道に生きることが許されないのか。殺生を避けられないのか。」
謙信は、戦国時代に武将の家に生まれた自分の運命を呪います。そして苦しみ抜いた揚句、謙信公が出した結論は

『大義正義ある戦しかしない。』

 謙信公は、兄に代わって家督を継ぐも兄の長男を跡継ぎとして養子に迎え、自らは出家僧として妻帯せず、争いを避けるために子供を作ろうとしません。また旗印は、黒地に白抜きの「毘」の文字としました。これは仏教の戦いの神、毘沙門天にあやかったものです。

 謙信の戦い方は、他の武将とは一線を画していました。

 他の武将が天下を狙い領土を拡大しようと軍師を抱えて策略の限りを尽くす一方、謙信は独り何日も何十日も毘沙門堂にこもって一心不乱に毘沙門天に祈りを捧げ、幾度となく自問自答するのです。

「この戦さに大義ありや?正義ありや?」
「毘沙門天よ、越後の民を守り救いたまえ!」

 祈り極まった謙信公は、まるで神懸かったような状態で出陣、その雄姿は清廉にして凛。まさに戦さの神、毘沙門天の軍勢の様相だったそうです。いつしか争っていた家臣たちも、どこまでも清涼で透き通った威厳ある謙信公を信奉していきます。
こうして野心入り乱れる戦国の世に、無敵の上杉軍団「毘」の旗が駆け巡ることになるのです。

 上杉謙信公の最大の戦さは、風林火山で有名な武田信玄との川中島の戦いです。

 謙信は、敵陣奥く深く摺鉢山(すりばちやま)に陣を構えて信玄と対峙しました。
戦の定石を無視した常識では考えられない禅問答のような作戦?に、武田信玄は上杉謙信の意図をはかりかねて警戒し、何十日も対峙し続けました。

 そして信玄は、天才軍師と云われた山本勘助による「啄木鳥(きつつき)戦法」を採用するのです。

 これはキツツキが木の側面を突いて虫を穴から出して食べるように、別働隊が側面から攻撃を仕掛け、山から下りてきた上杉軍を本隊が襲う作戦です。

 前日、謙信は敵陣から立ちのぼる煙が何時もより僅かに多いことに気づき
「明日、信玄が攻撃を仕掛けてくる!」と、瞬時に敵の作戦のすべてを悟るのです。まさに毘沙門天の天啓でしょうか。

 そして謙信は、馬の蹄に藁わ履かせて音が出ないようにし、全軍、静寂のまま夜陰に紛れて山を下って千曲川を渡り、信玄の本陣へと迫るのです。更に天も味方したのか、濃霧が発生して上杉軍の行動を隠します。

 このシーンは頼山陽の漢詩「川中島」の有名なフレーズ「鞭声粛粛 夜河を過る」(べんせいしゅくしゅく よるわかをわたる)で有名です。

https://goo.gl/RgnHDU

 早朝、信玄は作戦を決行、別働隊が側面攻撃を仕掛けるも敵陣には誰もいません。そして、朝靄の中から忽然と目の前に姿を現した「毘の旗印」の軍勢に武田軍は大混乱。謙信は馬上から直接、信玄に一撃を加えると越後へと去っていきます。そして信玄は、弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次など、多くの名だたる家臣たちを失ってしまいます。

武田信玄の完敗でした。

 人によっては謙信が越後に撤退したから引き分け、直接対決で一撃を加えるも打ち損じて謙信は逃げた、越後に逃げ帰った上杉軍の負けと評します。また、六十数度も戦い無敗で勝ち続けながらも領土勢力が全く拡大しないと、謙信の能力や政治手腕を疑問視する学者もいます。

 しかし、そもそも謙信公は、領土を拡大するなど一切の私欲や野望などなく、ただただ正義大義のためのみに戦ってきた仏道に生きる武将です。これを理解せずして一般的な価値観で異質の武将:謙信公を評価することは出来ません。

 また、武田信玄はじめ謙信公と戦いを繰り広げてきた近隣の戦国武将たちは跡継ぎに遺言を残しました。

「窮地に陥ったら上杉を、謙信公を頼れ」と。

 そして、ついに無敗の謙信は、足利将軍の要請で織田信長討伐の遠征を決断。最も恐れていた最強の敵に、さすがの信長も震撼します。ところが謙信公は、出陣直後に脳梗塞で馬上から落ちて亡くなり、信長と相まみえることはありませんでした。

 その後、大義正義の戦いを貫いた上杉謙信公の遺徳は、上杉景勝や直江兼続、そして上杉鷹山へと受け継がれていきます。戦国の世において聖職者ともいうべき異質の武将:上杉謙信公から、皆さまはどのような『武』を受け取りましたか?

 次の正拳コラムでは、謙信公の『武』を受け継いだ上杉鷹山をご紹介したいと思います。

PS.
掃除でノートパソコンを落として壊してしまい、代わりに正拳コラムを加筆修正してアップしてくれた先輩、ありがとうございました。

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