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武将談義3『肝と腹』~豊臣秀吉~

 コロナ禍で精彩を欠く社会に喝!!!
久々の正拳コラムです。

 天正十二年(1584年)、織田信長亡き後の天下を巡り、二つの軍勢が小牧長久手で対峙、膠着状態が続きました。一触即発の緊張感が漂う中、突如、一人の武将が立ち上がって敵陣前に「わーっ」と駆け寄ります。

 そして次の瞬間、
「これでもくらえ!」と、敵陣に向かって『お尻ペンペン!』

 これには敵味方フリーズ、次の瞬間、両陣営で大爆笑が起こりました。この「お尻ぺんぺん武将」こそが羽柴秀吉、皆さまご存じの後の太閤、豊臣秀吉です。また対峙していた軍勢は、なんと信長の次男・織田信雄と徳川家康の連合軍でした。

 今回のコラムは、家康と最初で最後の直接の戦(いくさ)で「お尻ぺんぺん」をやってのけた、豊臣秀吉の「武」について述べたいと思います。

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 小説に映画、時代劇に実用書からマンガまで、事あるごとに秀吉は取り上げられ、私なんかより皆さまの方がお詳しいと思います。ただ私的には、最も有名で皆さまが知っている秀吉こそが一番謎多く理解できない人物と思っています。そこで今回の武将談義は、切り口を変えて幾つか秀吉伝説?をご紹介します。

本能寺の変、秀吉の陰謀説

 有名な都市伝説に「本能寺の変、秀吉の陰謀説」があります。一般的に荒唐無稽とされていますが、あながち否定はできません。

 天下を目前に暴走する信長を危惧した秀吉と明智光秀は密かに策略を練り、光秀は本能寺で信長を討ちます。その後、秀吉が信長の仇の光秀を討ち取るのですが、実はこれが演出で、光秀は千利休として再び歴史の表舞台に登場するというものです。

 毛利攻めから一転「中国大返し」の不自然な位のタイミングのよさ。茶の湯を極めていた明智光秀。秀吉と利休の関係。利休と戦国武将たちとの旧知のような交流など、全てのつじつまが合います。
 我々、一般人は別として、当時の武将たちの間では明智光秀が千利休であることは公然の秘密で、武将たちは利休の茶の湯の門弟となり、茶室で様々な政策に意見を求め、指導を受けていたのかもしれません。

秀頼は秀吉の子でない?

 秀吉は、正室ねねはじめ多くの側室を持つも子宝には恵まれませんでした。ところが57齢にして突然、淀君(茶々)との間に秀頼が生まれます。これは医学的にも非常に不自然なため、秀頼は秀吉の子ではないとの噂は、いまも絶えません。

 もしかしたら秀吉自身が秀頼は自分の子供でないことを一番わかっている一方、小田家の血を引く茶々が公表できない父親の子供を授かったとしたら世間体が悪いため、あえて自分の子とした可能性があります。

バテレン追放令

 秀吉の無慈悲で残酷な施策に「バテレン追放令」があり、容赦なくキリスト教徒を迫害しました。ところが実際は、九州で多くの女子が拉致されて奴隷として海外に売られていたこと知った(女性好きの)秀吉は大激怒。
『おみゃ~ら、たいがいにせーよ、怒!』と、イエズス会に日本人を奴隷にすることを中止するよう命じ、キリスト教への改宗を禁止しました。

秀吉は、アジアに対する西洋諸国のキリスト教布教と植民地化は表裏一体だったことを見破り、徹底した無慈悲なキリスト教弾圧を行ったのです。

 ちなみに宗教弾圧では織田信長の「比叡山焼き討ち」が有名です。ただ、当時の比叡山は本来の目的を失い、政治圧力を目的とした僧兵による一大武装拠点でした。
 仏者を殺戮して自づから『第六天魔王』を名乗った信長ですが、女子供も容赦なく殺戮したとの伝承に反して、まったく証拠が発掘されません。実はこれは信長自身による戦国武将たちへの「従わないと容赦しないぞ」という冷徹な人物像を作るための広告戦略の可能性があります。

朝鮮出兵

 秀吉の晩年の失政?として朝鮮出兵『文禄・慶長の役』があります。出兵の目的は何だったのか?ここにも多くの学説が存在するのですが、推測として戦国の世を完全に終焉させるため、戦国大名たちの勢力を削ぐことが目的だったとの説があります。後に徳川家康もインフラ工事や参勤交代など、次々と大名たちの勢力を削ぐための施策を行ってます。

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 もっとも有名でありながら、その行動や施策の奥が図り知れない秀吉。私が秀吉に感じているのは、他人の悪評や噂、後世の歴史的評価など全く意に介さず、なすべきことをなした政治家という人物像です。

『世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る』とは坂本龍馬の歌ですが、秀吉には龍馬のように他人に理解してもらえない葛藤など微塵もありません。

 ひとつ言えることは底抜けの明るさ、(妻のネネを除き)恐れを知らない肝っ玉、人たらし、人生すべてが演技?で真意不明の腹の奥深さ。すべては武家でなく農家出身者として、人生のあらゆる辛酸を舐め尽くし乗り越えてきた悟りと境地が、秀吉を秀吉たらしめていることが間違いありません。

 現在に到るまで多くの歴史家が秀吉を論じていますが、あの世で秀吉は
『ぎゃははは!おみゃ~ら、面白いのぉ!』と一刀両断で終わり。いや後世の自分の歴史的評価など微塵の興味もなく、相手にすらしていないのでは^ ^

 困難も苦境も、人の噂に評価、理解に不理解も、善も悪も、慈悲も無慈悲も、あらゆる清濁すべてを飲み込んでギャハハと笑い飛ばし、政治家として容赦なく為すべきこなとを為す『肝っ玉と太っ腹』を以て秀吉の『武』にしたいと思いますが如何でしょうか^ ^

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