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お茶の木の肥やしになるのだ!

 新春!正拳コラム第一弾は、山岡鉄舟とともに明治維新を駆け抜けた幕臣・中條金之助景昭をご紹介します。景昭は、鉄舟の莫逆の友であり、共に北辰一刀流を極めて幕府の剣術・柔術世話心得など歴任するなど、鉄舟に勝るとも劣らない剣豪でした。この景昭の『武』とは、いったい如何なるものだったでしょうか。

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 大政奉還の翌年1月、幕府軍と薩長軍が衝突するも(鳥羽・伏見の戦い)、慶喜は恭順の意を示すため江戸にもどります。急遽、高橋泥舟は、慶喜を護衛するために猛者百名を集めて「精鋭隊」を結成し、隊長に中條景昭、歩兵頭格に山岡鉄舟を任命しました。

 その後、徳川家は静岡藩への国替えにより700万石から70万石となり、家臣たちは困窮に陥りました。山岡鉄舟は、武士たちを救うべく懸命に試行錯誤します。

 ある日、鉄舟は清水の次郎長より、遠江に入植可能な土地があると聞き、景昭と視察に行きます。大井川の脇にある金谷原(現・牧之原台地)は、広大な面積を誇りながら水の調達ができない痩せた土地で農民にも見捨てられ、何百年間、誰も手を付けていませんでした。

大井川の河原から山の如く見える大地に、鉄舟は言いました。

「水の無い台地か。大井川から水を運ぶにしても高いな…。」

「なに、富士山ほど高い訳でもあるまい。試しに大井川から水を汲み上げてみよう。」

 農家から天秤棒と桶を借りた2人は、何とか水をこぼさず高低差100メートルの急な坂道を登り切りました。

「ここを開墾するには、いったい何万回、何十万回、この坂を上って水を運ばなければいけないのか。生きるって試練だな。」

鉄舟は、黙って頷きます。

「しかし、やってみよう。石に噛り付く覚悟でやってみよう。」

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 そして中條景昭と精鋭隊は、静岡藩大参事の平岡丹波と勝海舟に金谷原の開墾を願い出るのです。

「遠江国の金谷原は、磽确(ぎょうかく)不毛の土地で水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及んでいる。若し、我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう。」

 すべては代々仕えてきた徳川家の恩義に報い、主君の負担を軽くするための帰農でした。

 そして許可を得た景昭と精鋭隊は「金谷原開墾方」と称し、剣を鍬に変えて牧之原荒野の開墾を開始しました。主な作物に、お茶の木を選びました。他の作物と比べて必要な水が少なく、育つ可能性があったからです。

 開墾作業は、熾烈を極めました。いくら体を鍛えた武士とはいえ、慣れない農作業と大井川から水を汲み上げる過酷な労働に脱落者も出始めます。お茶の木の育ちも悪く希望が見い出せません。それでも景昭は、必死に皆をまとめ上げて励まし、ストレス発散のために剣道の道場も開きました。

 明治5年、坂本龍馬の暗殺に関わって収監されていた京都見廻組の今井信郎は、特赦によって釈放されました。そして彼は、景昭の元に馳せ参じて帰農します。その翌年、茶畑は500ヘクタールに及び、初めての茶摘みが出来るところまで辿り着くのです。

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 明治政府は、牧之原台地の開墾に成功した中条景昭を評価し、神奈川県知事への就任を要請します。中條景昭は、明治天皇の侍従になっていた山岡鉄舟からの打診を一笑に付して言いました。

『いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木の肥やしになるのだ!』

 そして明治8年、明治天皇と皇后の旧水戸徳川家の屋敷への行幸の献上品として、山岡鉄舟の尽力により木村安兵衛の「桜あんぱん」と中條景昭&精鋭隊が作った「静岡茶」が選ばれたのは、皆様、周知の通りです。

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 その後、牧之原台地は東洋一の大茶園となり、静岡茶は明治日本を支える代表的な輸出品目に成長します。また、景昭が開いた山岡鉄舟の無刀流道場も門下生が千名を越え、景昭は「静岡剣道 中興の祖」と呼ばれるようになりました。

 明治29年、中條景昭は、牧之原の一番屋敷で死去。享年77歳にして「お茶の木の肥やしになるのだ」という本懐を遂げました。なお景昭は、生涯、丁髷を切らなかったそうです。武士としての矜持でした。

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中條金之助景昭の『武』とは何か。

 私は、この物語を教えて頂き、孟子の「俯仰天地に愧じず」を思い浮かべました。自ら帰農を申し出て艱難辛苦の道を選び、神奈川県知事という名誉栄達を一笑に付して断り、仲間のために不毛の大地と闘い続ける。生涯、丁髷を切らなかったラストサムライとしての誇り、無私無欲にして利他に生き貫いた人生そのものが中條景昭の『武』ではないでしょうか。

 また、主君である徳川慶喜のコラム「自ら勝つ者は強し」同様、中條景昭と精鋭隊にも次の老子の一節が似合います。

人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り。
その所を失わざる者は久し。
死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。

 老子の言葉は深遠で難解ですが、
「強めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し」
とは、まさに中條景昭と精鋭隊のような生涯を意味しているのではないでしょうか。

 威風堂々と志を貫いた天地に恥じない武士道ある人生は美しく、私たちを清涼極まりない気持ちに誘います。そして彼らの魂は、死してなお牧之原の茶畑に在り続けるのです。

静岡茶を飲まれるときには、是非、中條景昭と精鋭隊の『武』を、武士道ある生き様を思い出して頂けたらと思います。

中條景昭と精鋭隊の『武』〜 俯仰天地に愧じない人生 〜
高見 彰 押忍!

 
< 参考/出典 >
◆山本兼一著「命もいらず名もいらず」
▼牧之原市 市役所
http://jump.cx/ryeLC
▼歴史探訪 人物クローズアップ
http://jump.cx/f5c5Z

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』のセリフと『孟子』の言葉

 ショートコラムです。
 平成27年1月よりNHK大河ドラマ『花燃ゆ』(主演:井上真央)が始まります。主人公の文(ふみ)は吉田松陰の妹で、松下村塾の門下である久坂玄瑞の妻となり、激動の明治維新を生き抜いて行くドラマです。

▼NHK大河ドラマ『花燃ゆ』
http://www.nhk.or.jp/hanamoyu/

 このドラマの準主役である吉田松陰の精神的バックボーンには『孟子』があり、先日、発表しました高見空手の道場訓も『孟子』の四端説がベースです。高見空手と吉田松陰は、『孟子』繋がりなのです。

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 1855年、ペリーの船に乗り込んで密航を企てた吉田松陰は、野山獄に幽囚され、牢屋の中で囚人たちに『孟子』を講義しました。この時の講義録『講孟箚記』(こうもうさつき)は、今なお大人気の名著です。当然、松下村塾でも『孟子』は講義されました。

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 皆さまには、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の放送に先駆け、吉田松陰を奮い立たたせた『孟子』の言葉や故事成語の一部を以下の通りご紹介させて頂きます。

━━ 孟 子 ━━━━━━━━━━━━

『惻隠の情』

・語源
 「惻隠の心は仁の端なり」
・参考
 言わずと知れた高見空手の道場訓の第一条です。私の大好きな言葉ですが、語源が孟子だったことは道場訓を考える過程で初めて知りました。

『五十歩百歩』

・語源
 「甲を棄て兵を曳きて走ぐ。 或いは百歩にして後に止まり、或いは五十歩にして後に止まる。 五十歩を以て百歩を笑はば、則ち何如」

『匹夫の勇』

・意味
 思慮が浅く、ただ腕力に頼り血気にはやるだけのつまらぬ勇気。
・語源
 「王、請う小勇を好このむこと無なかれ。夫れ剣を撫し疾視して曰く、彼悪くんぞ敢えて我に当らんや、と。此れ匹夫の勇、一人に敵する者なり。」

『似て非なる者』

・語源
 「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」

『去る者は追わず、来る者は拒まず』

・語源
 「それ予の科を設くるや、往く者は追わず、来る者は拒まず」

『彼も人なり、我も人なり。』

・語源
 「舜も人なり。我もまた人なり」

『俯仰天地に愧じず』
『仰いでは天に恥じず、伏しては地に恥じず』

・意味
 やましいところがない。天地に恥じない。
・語源
 「仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは、二の楽しみなり」

『自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん。』

・意味
 自ら省みて良心に恥じなければ、(敵が)千万人いようとも恐れることなく向かっていく。

『至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり。』

・意味
 誠意を尽くして事にあたれば、どのようなものでも必ず動かすことができる。
・参考
 安倍首相の「座右の銘」であり、吉田松陰に大きな影響を与えた言葉のひとつです。NHKドラマ『八重の桜』では吉田松陰(小栗旬)の台詞になりました。また、孟子の「至誠」の教えは、以下の言葉の語源にもなりました。

「至誠通天(至誠天に通ず)」吉田松陰

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」西郷隆盛

「人は至誠をもって四恩の鴻徳を奉答し、誠をもって私を殺して万機に接すれば、天下敵なきものにして、これがすなわち武士道である。」山岡鉄舟

『天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。』

・意味
 天の与える好機は地理的な有利さに及ばず、地理的有利さも人心の一致には及ばない。

『道は爾(ちか)きに在り、而るにこれを遠きに求む。事は易きに在り、しかるにこれを難きに求む。』

・意味
 道は近く(日々の生活)にあるのに、かえってこれを遠くに求めてしまう。簡単な事であっても、かえってこれを難しく考えてしまう。

『力をもって人を服するのは、心から服するにあらず。徳をもって人を服するは、喜んで真に服するものなり。前者を威服といい、後者を心服という。』

・参考
 孟子は「心服」と「威服」の違いにより「王道」と「覇道」の違いも説いています。

『天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり。』

・意味
 天が人に大任を授けようとするときは、必ずまずその人の身心を苦しめ、窮乏の境遇におき、何を行ってもすべて失敗をさせて、わざわざその人を鍛えるものなのである。つまり、不運は天の試練として受け止めるべきものなのである。
・参考
 これも吉田松陰に大きな影響を与え、苦境に陥った松陰を奮い立たせた言葉です。

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いかがでしょうか?

 他にも『浩然の気』『読書尚友』『仁者は敵なし』や奨学金の名称の『育英』など数多くあり、日頃、私たちが使う言葉からも孟子が日本文化に溶け込んでいることがわかります。

 孟子の言葉や教えは、ドラマ『花燃ゆ』で吉田松陰や久坂玄瑞、高杉晋作、主人公の文のセリフにもなっていると思いますので、是非、楽しみに見てください。

━━ 1/5 追記 ━━━━━━━━━━

 昨日の第一回目の放送で文(ふみ)の子役(山田萌々香ちゃん)が小田村伊之助(後の楫取素彦、群馬県初代県令)に言った長い台詞は、以下の『孟子』滕文公章句上の一節で、舞台となった長州藩の藩校「明倫館」の命名の由来です。

「庠序学校を設け為して、以って之を教う。庠は養なり、校は教なり、序は射なり。
夏には校といい、殷には序といい、周には庠といい、学は則ち三代之を共にす。
皆、人倫を明らかにする所以なり。人倫、上にて明らかにすれば、小民、下にて親しむ。
王者起こること有らば、必ず来りて法を取らん。是、王者の師為るなり。」

・概意
「学校を作って人の道を教えなければいけない(人倫を明らかにしなければいけない)」

━━ 1/14 追記 ━━━━━━━━━

私の好きな孟子(吉田松陰)の一節
「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」ですが、何故かNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のセリフやBSの番組紹介テロップでは、
「至誠にして動かざるは、未だこれ有らざるなり」と、「者」が抜けています。

原文には「至誠而不動者未之有也」と「者」があるためNHKのミス?と思いましたが、以下の情報を見つけました。

▼Yahoo!知恵袋
http://jump.cx/scwwW

漢文で「者」は、人を表す場合と、それ以前の文が主語になることを表す助詞の場合があり、両方とも正解になるそうです。勉強になりました。

◎至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり。
◎至誠にして動かざるは、未だこれ有らざるなり。

━━ 1/19 追記 ━━━━━━━━━

1月18日放送のセリフに、孟子でなく王陽明の『知行合一(ちこうごういつ)』(伝習録)がありました。

※意味:知識と行為は一体である。本当の「知」は実践を伴わなければいけない。

 高見空手 道場訓は、「孟子の四端説」とともに王陽明の「知行合一」と並ぶ教え「事上練磨(事上磨練)」がベースなので、NHKドラマ「花燃ゆ」のセリフで孟子と王陽明の教えが使われるのは大変嬉しく思います。

 また、お世話になっている郷田道場時代のS先輩と同じ下宿のM先輩が山口県萩市の出身であることを思い出しました。そして偶然、教えて頂いたのですが藩校の明倫館は、現在、萩市立明倫小学校となり、毎日、子供たちは吉田松陰の教えを朗唱しているそうです。

▼明倫小学校
http://edu.city.hagi.lg.jp/meirin-e/

 これは素晴らしいと思います。昭和初期まで行われた論語はじめ四書の素読のようです。

 明倫小学校の子供たちが朗唱する文書量には及びませんが、高見空手の小学生たちも稽古の終わりに元気な声で道場訓を唱和し、早くも孟子の四端説「惻隠の心は仁の端なり…」を覚えてしまいました。当初、子供たちには漢文の書き下し文のある道場訓は難しいかなと心配しましたが私の杞憂でした。改めて子供たちの能力と可能性に驚かされました。
押忍!

━━ 2/8 追記 ━━━━━━━━━

今日の放送の孟子の言葉を追記します。

『万物皆我に備わる。身に反りみて誠あらば、楽これより大なるはなし。恕を強(つと)めて行う、仁を求むることこれより近きは莫し。』

・意味
万物の道理は皆自分の本性に備わっている。(四端の心など、人生に必要なものは自分に気が付かないだけで、生まれながらにして既に備わっている。)自分を省みて誠実であれば、これ以上の大きな楽しみはない。思いやりを持って行動することは、仁を修得する最も近い方法である。

また、先に紹介した明倫小学校の朗唱がテレビで紹介されて驚きました。

━━ 3/8 追記 ━━━━━━━━━

3月8日放送のオープニング部分での吉田松陰と文との会話

「天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡なし」

原文;天下之不助苗長者寡矣
意味;世の中には苗の成長を無理に助けたりしない(賢明な)者は少ない。

は、『孟子』公孫丑章句上の「浩然の気」の解説にある言葉で、
「助長」(成長を促すために助けて、かえってダメにしてしまう)の語源になりました。

・書き下し文
天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡なし。
以て益無しと為してこれを舎つる者は、苗をくさぎらざる者なり。
之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。
徒ただに益無きのみに非ず、而も又之を害ふと。

・現代訳
(苗の成長を促すために引っ張って、逆に枯らしてしまった例え話を挙げて)
世の中には、苗の成長を無理に助けたりしない(賢明な)者は少ない。
無益だと考えてこれを放棄する者は、いわば畑の雑草取りをしない者である。
無理に成長させようとする者は、いわば苗を引っぱる者である。
これらは無益であるだけでなく却って害をなすのである。

━━ 4/20 追記 ━━━━━━━━━

昨日の放送の吉田松陰の言葉を追記します。
(実は私は録画せず見損ねたので、友人に新しい言葉を教えてもらい追記しました)

『恒の産なくして恒の心ある者は、惟だ士のみ能くすと為すと。此の一句にて士道を悟るべし。諺に云ふ、武士は食はねど高楊枝と、亦此の意なり』

・解説
孟子の「恒の産なくして恒の心ある者は、惟だ士のみ能くすと為す。民の若ごときは則ち恒つねの産無くして、因って恒の心無し」の吉田松陰による解説です。概意は、生活が困窮しても心乱れず定まるのは学問修養した士のみである。この(孟子の言葉)から武士道を悟りなさい。

『学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり。』

・意味
学問とは、人の道を学ぶことだ。

これは孟子でなく、吉田松陰の言葉(松下村塾記)です。

火の玉オヤジの『なにくそ精神!』

 よく皆さまから正拳コラムの情報は何処で仕入てるんですか?と質問を受けます。それは過去に読んだ本や、友人知人・先輩諸兄との武道談義、アドバイスから得た情報を学んでおります。

 そして最近、ある先輩より「ビジネスからも『武』を学べるよ」とのアドバイスを頂き、何冊か本を紹介して頂きました。

 今まで私は、武将や剣豪など武道家ばかりを訪ね、経済界の『武』と言われてもピンとこなかったのですが、多くのサムライが経済界にいたことに感動しました。これは武道の世界にいる私よりも、ビジネスの世界でご活躍している皆様の方が私よりお詳しいと思いますが、以下に紹介して頂いた本の主なものを列記します。

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『 もう、きみには頼まない 』文春文庫

「用があるならそっちが来い」と、マッカーサーの出頭要請を断り、
「ただ男として引き受けねばならぬ仕事がある。」
「信念と正義を貫けば、そこは十字架への道だ。」と、誰も引き受けない厄介ごとばかりを受けて立つ「財界総理」こと石坂泰三氏。

『 電力会社を九つに割った男 』講談社文庫

「生きて鬼、死して仏とならん。」と、大暴れして戦後の電力事情を再編成して高度経済成長のお膳立てをした「電力の鬼」こと松永安左ヱ門氏。

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『 海賊とよばれた男 』講談社文庫

大英帝国や世界経済を牛耳る国際石油カルテル「セブン・シスターズ(七人の魔女)」を相手に戦い、世界を驚倒させた「士魂商才」出光佐三氏。

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 そして今回の正拳コラムは、吉村秀雄さんの『武』を紹介させて頂きます。POP吉村(吉村のオヤジ)と呼ばれた吉村さんは、「エンジンの神様」と称された機械職人です。恥ずかしながら私は若い頃、角川映画「汚れた英雄/主演:草刈正雄」に感化されてモータースポーツが好きになり、レーシングチーム「ヨシムラ」の名は知っていましましたが、まさかそこに『武』があることは存じ上げませんでした。

 吉村さんは、海軍少年航空学校(通称;予科練)に競争率73.5倍を突破して入学し、血へどを吐く激しく厳しい訓練を経験。その後、病気で退学を余儀なくなるも大空への夢を捨てきれず、必死に勉強して海軍の航空機関士となった経歴の持ち主です。

 終戦後、故郷の福岡に戻った吉村さんは、機械工場を開きます。英語が堪能なため米兵からバイクの修理依頼が殺到、いつしか工場や家は米兵達の溜まり場となり、ポップ吉村(吉村オヤジ)と呼ばれるようになります。吉村さんは、若き米兵たちを可愛がり、時に本当の親父のごとく叱りつけました。

 そして吉村さんは、米軍基地内のバイクレースに招かれるようになります。吉村さんが改造したバイクは断トツの速さを誇り、米兵達は改造バイクを宝物のようにして本国に持ち帰っていきました。

 その後、オートバイレースが日本でも開催されるようになり「吉村氏が改造したバイクは速い」と評判になります。当時のホンダ(本田技研工業)の経営陣たちは、吉村さんの職人技に惚れ込んで提携を申し入れました。

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 ところが数年後、創業者の本田宗一郎が「吉村改造バイク」が自社レース用マシンよりもパワーが出ていることを知り、技術陣を叱り飛ばしたのです。

「他人さまの方が自社バイクの性能を引き出すとは何事だ!」

 この一言にホンダ技術陣は吉村さんをライバル視し、一方的に部品供給を停止して提携も解消。更にレーサー達に「吉村のバイクに乗るな」と圧力までかけたのです。
 仕事を失った吉村さんは、米国でのビジネスを考えます。自分のバイク部品が、かつて面倒を見ていた米兵達を始め、米国のライダー達に人気があったためです。

 1972年、吉村さんは仕事で知り合ったディール氏と共同で、米国に会社を創業します。ところが彼は、吉村さんを騙して会社を乗っ取り「ヨシムラ」商標まで奪うのです。
 吉村さんは全てを失い帰国しますが、その後、「偽ヨシムラ」の粗悪品が出回ることに我慢できず、「戦争だ!」とアメリカに再上陸して、ひたすら高品質・高性能パーツを作り続け、偽ヨシムラの粗悪品を駆逐して敵を倒産まで追い込みました。

 その後、吉村さんはスズキ自動車の横内悦夫氏と出会います。社長から「バイクレースで勝つように」と厳命を受けていた横内氏は、内部スタッフの技術力ではとてもレースに勝てないと打ち明けました。

「吉村さん、やりますか」

「やりましょう」

 お互いの気持ちを確認した二人は、協力体制を取ることにします。この時、横内氏は「この人ならワークスに勝てる!」と、実感したそうです。

 ワークスとは、巨大な資本力と技術陣に支えられたホンダやカワサキなどの大企業メーカー直属のレーシングチームのことで、市井のレーシングチームがワークスに勝つことは不可能とされていました。

 横内氏との出会いで「国際レースで勝つ」目標を得た吉村さんですが、直後、工場の火事で全身大火傷を負ってしまいます。長男の不二雄氏は、放心状態の父に「さすがのオヤジも57歳、もう駄目かも」と、思ったそうです。

 この憔悴し切った吉村さんの元に、スズキが開発中のバイクGS1000試作機が極秘裏に2台届けられました。これが特効薬となって「火の玉オヤジ」は復活、重傷を負った両腕のリハビリを兼ねてGS1000の改造を始めるのでした。

 そんな時、ある情報がもたらされました。来年、鈴鹿サーキットで八時間耐久の国際レースが開催され、ヨーロッパ耐久レースを九戦全勝して無敵艦隊と称された最強のホンダワークスを始めとして、世界中から強豪レーシングチームが集結・参戦する、というのです。

「相手にとって不足ない。やってやろうじゃないか!」

 燃える吉村さんは、改造したGS1000と、クーリー、ボールドウィンという2人のライダーを率いて日本に逆上陸を果たします。

 1978年7月30日、記念すべき第一回「鈴鹿八時間耐久レース」は七万人の大観衆を集めて開催されました。事前の下馬評に町工場チーム「ヨシムラ」の名は、話題にすら上りません。大企業が威信をかけて開発したマシンに、町工場のオヤジが改造したバイクが勝てるハズがない、と、誰もが考えていたからです。

 ところが予選で第2位のタイムを叩き出したヨシムラに、人々はどよめき始めます。そして本戦。ヨシムラのバイクは、序盤戦から大本命のホンダワークスをブッチ切り、カワサキとの壮絶な競り合いを制して見事、優勝を遂げるのです。

 鈴鹿サーキットが「ヨシムラ」コール一色に染まる中、ライダー達ととともに、吉村さんは表彰台に立ちました。

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 このお話を知った時、私は吉村さんの『武』とは、巨大な敵や困難と対峙した時、「相手にとって不足ない。やってやろうじゃないか!」という不撓不屈の「なにくそ精神!」と思いました。

病気で予科練を退学するも航空機関士となって海軍に復帰し、
単身、アメリカに乗り込んで乗っ取られた会社を倒産に追い込み、
工場の火事と全身大火傷からの復活、
そして大企業ワークスチームに勝利する。

そこには、困難や挫折をものともせず、決して負けない、諦めない不撓不屈の「なにくそ精神!」と、勝利を掴むに有り余るほどの精進努力がありました。

 空手道のみならず、武道・スポーツから受験や仕事に至るまで、最初から巨大な敵に怖気づき、戦う前から心が負けていたら勝利はありません。いかなる相手であろうとも武道家は、ポップ吉村よろしく「なにくそ精神!」が先に立たなくてはいけないのです。

試合で格上の相手と対峙した時、
難関校を受験することになった時、
仕事で無理難題、ノルマを課せられた時、
人生、あらゆる困難に遭遇した時、

慢心や強がり、無謀、蛮勇とは違う、日々の鍛錬からくる「不撓不屈の精神」で挑み乗り越えてこその武道家です。吉村さんの『武』は、不撓不屈とは如何なるものかを私たちに教え示して下さいます。

 それでは最後に吉村秀雄さんの『 座右の銘 』をご紹介します 

 これは日露戦争終結後の1905年12月21日、バルチック艦隊を打ち破った連合艦隊の解散式において、秋山真之が起草して東郷平八郎が読み上げた訓示『聯合艦隊解散之辞』の最後の一節です。米国セオドア・ルーズベルト大統領は、この訓示に感銘を受け英訳文を将兵に配布しました。

吉村秀雄 『 座右の銘 』

神明はただ平素の鍛錬に力め
戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授けると同時に
一勝に満足して治平に安んずる者よりただちにこれを奪う。
古人曰く 勝って兜の緒を締めよと。

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▼『連合艦隊解散の辞』原文
http://goo.gl/8wtnVf

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 極真会館より独立して一年、空手道 高見空手は、皆様のお陰で大過なくここまでやってこれましたこと心より感謝申し上げます。

 そして年末にあたり吉村秀雄さん(秋山真之)の『勝って兜の緒を締めよ』を肝に銘じ、油断なく怠り侮りなく、ただ平素の鍛錬に心注いで新年度を迎えたいと思います。
ありがとうございました。

高見 彰 九拝

<参 考>
富樫ヨーコ著『 ポップ吉村の伝説 』講談社+アルファ文庫

▼吉村秀雄"POP吉村"
http://goo.gl/81cq09

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 次回は新年度に再び江戸末期〜明治初期に戻って、山岡鉄舟コラムのスピンアウト第3段『お茶の木の肥やしになるのだ』を投稿予定です。

お楽しみに!

『剣魂歌心』- 古代日本のロマン編

 前コラム「万葉のこころ編」を先輩と監修している時の会話です。

「ところで先輩、万葉集が一番古い詩集なら、一番古い和歌ってなんですか?」
「確か古事記に出てくる素戔嗚尊が詠んだ…」
「あっ…?!!」

この会話が「古代日本のロマン編」の始まりとなりました。

 武士が現れた平安時代より遥か昔の古代日本の神代、日本最初の『武』の神さま素戔嗚尊(スサノオノミコト)が『和歌』の神様だったことに私は気が付きました。
『武』と『和歌』は同じ神さま、素戔嗚尊がルーツだったのです。

 古事記にある素戔嗚尊の神話は、たいへん有名な昔話なので皆様ご存じかと思います。

 神々の住む世界「高天原」で乱暴な振る舞いをした素戔嗚尊は、お姉さんの天照大御神さまに怒られて追放され、出雲の国に流れ着きます。そこで巨大な蛇の怪物:八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、生贄だった櫛名田比売(くしなだひめ)を救い、神剣:天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙の剣)を手に入れました。

 この神剣は、素戔嗚尊が使っていた名刀:十握剣(とつかのつるぎ)が刃こぼれする程の業物。そこで素戔嗚尊は、天叢雲剣をお姉さんの天照大御神さまに献上した後、櫛名田比売と結婚して新居を構え日本初の和歌を詠いました。

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を 』

【意味】
幾重にも雲が立ち上がる出雲の地で、妻と暮らす家のまわりに八重垣を巡らしたのだ。あの雲のように。

 先輩と私は、この素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して櫛名田比売と結婚する神話に登場した「神剣:天叢雲剣」と「日本最古の和歌」が『剣魂歌心』のルーツでは?と思わず興奮、古代日本の『武』にロマンを感じてしまいました!

▼ヤマタノオロチ伝説
http://jump.cx/KYy0C

※参考に武道道場にある掛け軸「鹿島大明神」こと建御雷神(タケミカヅチノカミ)は、高天原の武神で、雷神であり剣の神であり、相撲の元祖の神でもあり、素戔嗚尊から6代目の因幡の白ウサギで有名な大国主(出雲大社)との国譲り段で登場します。

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 その後、天照大御神は天孫降臨に伴い神剣:天叢雲剣を皇室の「三種の神器」の一つとして地上に降ろされました。

 時は流れて第十二代:景行天皇の御代、勅命を受けて東征するヒーローの日本武尊(ヤマトタケルミコト)は、道中で倭姫命(ヤマトヒメ:伊勢神宮の創建者)より神剣:天叢雲剣を授けられました。

 日本武尊は、この神剣のお蔭で相模の国の戦では窮地を脱しますが、伊吹の悪神との対決では天叢雲剣を帯刀しなかったために敗れ、命を落としてしまいます。その時の日本武尊の歌が次の通りです。

『 大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和し うるはし 』

【意味】
大和は母なる国、幾重にも重って青々とした山々に抱かれた大和は、何と美しい国だろう!

 これが初めて詠われた辞世の句であり、後の武士の「辞世の句」の慣わしは、もしかしたら日本武尊に倣ったのかもしれません。

 そして、私たち高見空手の原点である大山倍達総裁の碑は、秩父市の三峯神社の日本武尊の像の脇に設置されております。神代から続く日本の『武』の歴史。大山総裁の碑が日本武尊像の脇に設置されたことに、私は不思議な因果を感じてしまいました。

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 実は昨年、京都で行われた極真祭の終了後、様々なことで葛藤していた私を見かねた友人が、気分転換に「お伊勢参り」を勧めてくださいました。丁度、伊勢神宮では、20年に一度の式年遷宮が行われていたため、私は愛媛に帰る前に伊勢神宮に寄って参拝させて頂き、伊勢うどんと赤福を食べて来ました。
たいへん美味しかったです。ご馳走様でした。

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 この参拝以降、様々な変革があって高見空手の発足へとなっていきます。そして恐れ多いことですが、20年おきに新たに社殿を造り替える伊勢神宮の式年遷宮の神事に、高見空手のシンボルマーク「鷹」の‘新たに生まれ変わる決断’の意に共通点を感じた次第です。

▼鷹の選択

 このことを先輩にお話したら
「鷹マークを初めて見た時、八咫烏と勘違いしたよ」と笑ってました。そう言われたら確かに似てますよね。ちなみに八咫烏は、サッカー日本代表のマークになった熊野本宮大社の素戔嗚尊の神使です。

▼八咫烏
https://goo.gl/RLu5XD

 いつの日か、私は伊勢神宮に高見空手の発足御礼の参拝に行き、更に足を延ばして世界遺産の熊野古道を歩き、日本初の『武』の神さま素戔嗚尊の祀られる熊野本宮大社で高見空手の『拳魂歌心』をご祈願したいと思います。

 素戔嗚尊の八岐大蛇の退治の神話における「神剣:天叢雲剣」と「日本最初の和歌」こそ『剣魂歌心』の始まり。

 天叢雲剣(別名:草薙の剣)を帯刀せずに敗れた大和武尊の歌が武士の『辞世の句』の始まり。

 これは学説でなく、あくまで私個人の仮説、と、言うよりも素戔嗚尊から始まった日本武道へのロマン(歌心)です。皆さまにも太古日本の神話の時代の『武』に想いを馳せてロマンを感じていただけたら嬉しいです。

『 拳魂歌心~ロマンチック(歌心)が止まらない~ 』 高見 彰

『剣魂歌心』- 万葉のこころ編

 759年に編集された世界最古の詩集『万葉集』。この詩集は『和歌の前の平等』という「言霊の幸ふ国」日本ならではの独自な思想哲学が貫かれました。

 「和歌の前の平等」は、和歌(の評価)の前では天皇も庶民も平等という考え方で、万葉集には天皇の御製から貴族、東人(あずまびと)、農民、遊女まで、身分も男女の差別もなく、地域も奈良、関東、北陸から九州まで、全国から4500首以上もの和歌が集められました。歌聖といわれた柿本人麻呂も、柿の木の根元から生まれた?という出所不明の人物。当時「和歌の前の平等」がどれだけ浸透していたのかわかります。

 そして万葉集には防人(他国から九州を防備した兵士)の歌もあり、万葉の文化は、平安中期から後期に現れた戦闘が本分の「武士」に『剣魂歌心』(けんこんかしん)という精神性をもたらし、後の武士たちの「辞世の句」の慣わしにもなっていきます。

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『 剣魂歌心 』

「剣魂」は、刀を使う武士とその魂、強さ・勇猛心、
「歌心」は、狭義で和歌を詠む豊かな感性や気持ち、広義では学問・芸術の心、優しさや慈悲、惻隠の情を意味します。

 いつから言われ始めたか出典は定かではありませんが、
「強いだけでは武士でない。戦場においても生死を越えた平静心と敵に対する惻隠の情、歌心あってこそ武士(もののふ)である。」
という精神性は、武士道の原点の一つとなりました。

 昔から世界の何処にも兵士はいましたが、日本の「武士」は、他国の兵士・軍人とは異なる精神文化を持つ存在。ある意味『剣魂歌心』が武士を武士たらしめたのかもしれません。
 また「清和源氏」に「桓武平氏」と、源氏も平家も皇室が祖なので、武士たちが歌心(うたごころ)、教養文化を備えているのも頷けます。

以下、「剣魂歌心」に関するお話をご紹介します。

◇◆◇衣川館の戦い(1091年「前九年の役」)◇◆◇

 源義経(牛若丸)の自害(?)から遡ること100年前、同じ衣川(岩手県平泉)で源義家と安陪貞任(あべのさだとう)が戦いました。

そして、戦いに負けて敗走する貞任に向かって義家は、

「衣の館(たて)は綻びにけり」と‘下の句’の勝どきを上げました。

【解説】地名「衣」が綻び(=滅び)、「館(やかた)」は一族郎党を意味。
⇒「衣川の一族は滅びたり。」という意味。

これに対し貞任は、

「年を経し糸の乱れの苦しさに」と、義家に‘上の句’を返したのです。

【解説】年月を経て糸が乱れたのだ。
⇒「(お前に負けたのでなく)年月による体制の乱れで滅ぶのだ。」

返歌を聞いた義家は、見事な貞任の武者振りと教養の高さに感動して追撃を止めました。

『 年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣のたては 綻びにけり 』

戦場での義家と貞任の歌問答は、まさに『剣魂歌心』そのものです。

※源義家:平安時代後期の武将。八幡太郎の通称で知られ、伊予守源頼義の長男で愛媛県とも縁があり、源頼朝や足利尊氏の祖先になります。

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◇◆◇平忠度の都落ち(1183年「平家物語:忠度都落」)◇◆◇

 源平合戦に敗れた平忠度(たいらのただのり)は、平家一門の都落ちの後、密かに従者6人と都に引き返して和歌の師である藤原俊成を訪ねます。

「落人が来た!」と家中が動揺する中、毅然と対面した俊成に、忠度は和歌を託します。

『 さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな 』

 後年、藤原俊成は、この和歌が朝敵となった平忠度が詠ったものであることを隠し「よみびと知らず」として勅撰和歌集に載せました。

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『 剣魂歌心 』

強いだけでは武士でない。戦場においても
生死を越えた平静心と敵に対する惻隠の情、
歌心あってこそ武士(もののふ)である。

 改めて平安時代の武士たちの境地、教養の高さに驚きと感動を覚えます。そして後世の武士が、武芸だけでなく禅や学問・芸術を修めた原点に「剣魂歌心」という精神性があったことは言うまでもありません。

 かの宮本武蔵も、決闘ばかり注目されますが、白鷺城の開かずの間に3年間幽閉されて万巻の書を読破して学問を修め、後に「五輪の書」を執筆。また水墨画や彫刻も習得し、武蔵が彫った不動明王像の修復を依頼された明治を代表する彫刻家(仏師):高村光雲が「私は及ばず」と辞退したほどです。

 そして現代、私たち武道家も古(いにしえ)から続く「剣魂歌心」の精神性を受け継ぎ、学芸を修めて教養を高めなければいけません。

 私自身、内弟子時代の修行として大山泰彦師範に多読・乱読を課して頂き、日報と読書感想文を書いておりました。この修業は、読書や正拳コラム執筆となって今なお続いております。
 また、日本人が武士道を知らない以上に私はパソコンを知らないため、石川師範や熊田先生の指導を仰ぎ、冷や汗をかきながらホームページ運営やメルマガ発行をしています。生涯、勉強・修行です。

 そして高見空手の先生方は、シンガーソングライターの平松師範、ピアノ/トランペット/ギター/ジャズトロンボーンを演奏する丸山師範、今治水軍太鼓の南條師範、釣キチの久保田師範代を始め、全員、歌心(うたごころ)いっぱいです^ ^

 また以前、岡鼻首席師範に得意技を訪ねたら
「うなぎ捕りだよ。僕は愛媛のうなぎ捕り名人」とお話されました。
首席師範、なかなかの歌心です、押忍!

 閑話休題、「歌心」は、学問・芸術の心や惻隠の情です。

高見空手の学生のみなさんも古(いにしえ)の武士(もののふ)の「剣魂歌心」に倣い、空手家として『拳魂歌心』を以て学業に励んでください!!

「勉強しなさい!」と、お父さんお母さんに叱られたら、それこそ空手家としての名折れ、「士道不覚」ですぞ!(笑)

 また是非、お父さんお母さんには、子供たちに多読・乱読の読書を勧めていただき、できれば小学生の時から読書習慣を身につけて頂けたらと思っております。子供たちにはマンガやゲームばかりでなく活字にも触れて、多くの良本と出会い、豊かな人生を歩んでもらえたらと願っております。

アレックさん「武士道とは残心なり!」に対し、
私は剣を拳に変え「武士道は拳魂歌心にあり!」です/

高見 彰 押忍!

<おまけ>

 じつは奈良~平安時代に始まった『和歌の前の平等』万葉のこころは、いまも残っております。新年に皇居で行われる『歌会始(うたかいはじめ)』は、誰でも応募できます。そして和歌が選ばれた預選者は陛下から『歌会始』に招待され、天皇皇后両陛下への拝謁も許されます。
 我こそはと思う門下生は、昔の武士(もののふ)に倣い、和歌を作って応募しては如何でしょうか。もし入選したら高見空手『拳魂歌心』の大いなる誉れです!!

▼宮内庁 皇室に伝わる文化:歌会始
http://goo.gl/Hky0kB

次回は、更に『剣魂歌心』の原点に迫った「古代日本のロマン編」です。
お楽しみに!

>>>次の「古代日本のロマン編」へ!

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