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お茶の木の肥やしになるのだ!

 新春!正拳コラム第一弾は、山岡鉄舟とともに明治維新を駆け抜けた幕臣・中條金之助景昭をご紹介します。景昭は、鉄舟の莫逆の友であり、共に北辰一刀流を極めて幕府の剣術・柔術世話心得など歴任するなど、鉄舟に勝るとも劣らない剣豪でした。この景昭の『武』とは、いったい如何なるものだったでしょうか。

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 大政奉還の翌年1月、幕府軍と薩長軍が衝突するも(鳥羽・伏見の戦い)、慶喜は恭順の意を示すため江戸にもどります。急遽、高橋泥舟は、慶喜を護衛するために猛者百名を集めて「精鋭隊」を結成し、隊長に中條景昭、歩兵頭格に山岡鉄舟を任命しました。

 その後、徳川家は静岡藩への国替えにより700万石から70万石となり、家臣たちは困窮に陥りました。山岡鉄舟は、武士たちを救うべく懸命に試行錯誤します。

 ある日、鉄舟は清水の次郎長より、遠江に入植可能な土地があると聞き、景昭と視察に行きます。大井川の脇にある金谷原(現・牧之原台地)は、広大な面積を誇りながら水の調達ができない痩せた土地で農民にも見捨てられ、何百年間、誰も手を付けていませんでした。

大井川の河原から山の如く見える大地に、鉄舟は言いました。

「水の無い台地か。大井川から水を運ぶにしても高いな…。」

「なに、富士山ほど高い訳でもあるまい。試しに大井川から水を汲み上げてみよう。」

 農家から天秤棒と桶を借りた2人は、何とか水をこぼさず高低差100メートルの急な坂道を登り切りました。

「ここを開墾するには、いったい何万回、何十万回、この坂を上って水を運ばなければいけないのか。生きるって試練だな。」

鉄舟は、黙って頷きます。

「しかし、やってみよう。石に噛り付く覚悟でやってみよう。」

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 そして中條景昭と精鋭隊は、静岡藩大参事の平岡丹波と勝海舟に金谷原の開墾を願い出るのです。

「遠江国の金谷原は、磽确(ぎょうかく)不毛の土地で水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及んでいる。若し、我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう。」

 すべては代々仕えてきた徳川家の恩義に報い、主君の負担を軽くするための帰農でした。

 そして許可を得た景昭と精鋭隊は「金谷原開墾方」と称し、剣を鍬に変えて牧之原荒野の開墾を開始しました。主な作物に、お茶の木を選びました。他の作物と比べて必要な水が少なく、育つ可能性があったからです。

 開墾作業は、熾烈を極めました。いくら体を鍛えた武士とはいえ、慣れない農作業と大井川から水を汲み上げる過酷な労働に脱落者も出始めます。お茶の木の育ちも悪く希望が見い出せません。それでも景昭は、必死に皆をまとめ上げて励まし、ストレス発散のために剣道の道場も開きました。

 明治5年、坂本龍馬の暗殺に関わって収監されていた京都見廻組の今井信郎は、特赦によって釈放されました。そして彼は、景昭の元に馳せ参じて帰農します。その翌年、茶畑は500ヘクタールに及び、初めての茶摘みが出来るところまで辿り着くのです。

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 明治政府は、牧之原台地の開墾に成功した中条景昭を評価し、神奈川県知事への就任を要請します。中條景昭は、明治天皇の侍従になっていた山岡鉄舟からの打診を一笑に付して言いました。

『いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木の肥やしになるのだ!』

 そして明治8年、明治天皇と皇后の旧水戸徳川家の屋敷への行幸の献上品として、山岡鉄舟の尽力により木村安兵衛の「桜あんぱん」と中條景昭&精鋭隊が作った「静岡茶」が選ばれたのは、皆様、周知の通りです。

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 その後、牧之原台地は東洋一の大茶園となり、静岡茶は明治日本を支える代表的な輸出品目に成長します。また、景昭が開いた山岡鉄舟の無刀流道場も門下生が千名を越え、景昭は「静岡剣道 中興の祖」と呼ばれるようになりました。

 明治29年、中條景昭は、牧之原の一番屋敷で死去。享年77歳にして「お茶の木の肥やしになるのだ」という本懐を遂げました。なお景昭は、生涯、丁髷を切らなかったそうです。武士としての矜持でした。

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中條金之助景昭の『武』とは何か。

 私は、この物語を教えて頂き、孟子の「俯仰天地に愧じず」を思い浮かべました。自ら帰農を申し出て艱難辛苦の道を選び、神奈川県知事という名誉栄達を一笑に付して断り、仲間のために不毛の大地と闘い続ける。生涯、丁髷を切らなかったラストサムライとしての誇り、無私無欲にして利他に生き貫いた人生そのものが中條景昭の『武』ではないでしょうか。

 また、主君である徳川慶喜のコラム「自ら勝つ者は強し」同様、中條景昭と精鋭隊にも次の老子の一節が似合います。

人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り。
その所を失わざる者は久し。
死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。

 老子の言葉は深遠で難解ですが、
「強めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し」
とは、まさに中條景昭と精鋭隊のような生涯を意味しているのではないでしょうか。

 威風堂々と志を貫いた天地に恥じない武士道ある人生は美しく、私たちを清涼極まりない気持ちに誘います。そして彼らの魂は、死してなお牧之原の茶畑に在り続けるのです。

静岡茶を飲まれるときには、是非、中條景昭と精鋭隊の『武』を、武士道ある生き様を思い出して頂けたらと思います。

中條景昭と精鋭隊の『武』〜 俯仰天地に愧じない人生 〜
高見 彰 押忍!

 
< 参考/出典 >
◆山本兼一著「命もいらず名もいらず」
▼牧之原市 市役所
http://jump.cx/ryeLC
▼歴史探訪 人物クローズアップ
http://jump.cx/f5c5Z

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