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武道教育のあり方~中学校の武道必修化を考える

 昨年11月17日、愛南町の町長である清水雅文氏が高見空手の最高顧問に就任されました。清水最高顧問は、高見空手の前身である極真会館愛媛南豫支部の発足当初から、四国では数名しか許されなかった極真の黒帯として何度も全日本大会に出場された武道家であり、また現在は、熱心に子供の教育問題に取り組んでいらっしゃる政治家でもあります。

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 そして高見空手の道場訓を気に入って頂き、子供たちへの武道教育の必要性や取り組み方など、ご指導頂いております。

 そこで今回の正拳コラムは『武道教育の在り方』について述べたいと思います。

中学校の武道必修化について

 平成20年、文部科学省は、中学校学習指導要領を改訂して武道を中学生の必須科目に定め、平成24年に完全導入されました。

▼ 中学校武道必修化サイト
http://goo.gl/Ja6yaj

 高見空手サイトの「概要」では、武道経験のない先生が教えるには限界があると述べましたが、世間でも現状「武道必修化」の価値の疑問視や弊害を主張する方など賛否両論あり、右から左まで様々な意見がありました。

 私は、有名な武術家はじめ多くの意見を読んでみたのですが、少々、論点というかポイントが外れているように感じられました。そもそも中学校の体育の授業は週3回程度。その内の何回が武道の授業になるのでしょうか。多くの方々が大上段から武道の「術」の習得の難しさなど熱く論じていましたが、是非のポイントは違うと思います。

 当たり前のことですが、文科省は、わずか数時間程度で武道が習得できないことくらい承知しています。柔道であれば受け身とか、学校の限られた授業で教えられるのは入門の触りの部分まででしょう。(誤った指導する先生は論外として)

 文科省が期待するのは武道の習得でなく、「礼儀・礼節、相手に対する敬意の念」など、子供たちが武道にある日本の伝統的な精神性に触れて、相手を尊重して練習や試合ができるようにするためです。また、荒廃しつつある子供たちの心に武道精神が好影響を及ぼすことを期待してのことです。そして、武道を習得したい子供は、別途、クラブ活動や町道場で習うでしょう。

 私は、武道経験のない先生の授業の限界を認識しつつも、必須化によって教育熱心な先生たちが新渡戸稲造著の「武士道」はじめ、最近では「女子の武士道」「日本人の知らない武士道」などの本を読んで武道精神を勉強されることは、教育現場に好ましい影響があると思っています。

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 また、アメリカでの大山泰彦最高師範の内弟子時代、私は週に一度、小学校で空手を教えていましたが、やはり先生やご父兄が期待したのは、子供たちが空手道に触れて、
「修行、礼儀・礼節、謙譲の美徳、惻隠の情、相手に対する敬意の念」という精神性を学ぶことでした。先生も修行のある世界をことさら強調され、私の他にも大工、エンジニア、消防士も招いておりました。

 私がお手伝いしたアラバマの小学校の取り組みは、文科省の「武道の授業必須化」の目的となんら変わりはありません。

子供たちに教えたい武道精神

 私が生まれる二年前の1964年に開催された東京オリンピック。柔道の無差別級代表の神永選手は、決勝でオランダ代表のアントン・ヘーシンクに敗れてしまいます。柔道母国・日本が負けたショックに静まりかえる日本武道館。そして歓喜のあまりオランダ関係者がヘーシンクの元に駆け寄ろうとしました。ところがヘーシンクはこれを手で制止し、ガッツポーズもなく静かに試合場を後にするのです。

残身(残心)、礼に始まり礼に終わる試合、敗れた相手に対する敬意と惻隠の情…

 日本人は、日本柔道が敗れたショック以上に、外人のヘーシンクが持つ日本古来の武士道精神に衝撃を受たそうです。

 神永選手が、柔道母国の代表として、どれだけの期待とプレッシャーを背負い、どれだけ苦しく大変な稽古を積み重ねてきたのか。自分が倒した相手の全てを受け止めて理解し、おもんばかってのリスペクト。これがヘーシンクの『惻隠の情』による残心です。

 残念ながら現在、私たちは、こうした精神性に触れる機会が少なくなりました。これは、プロスポーツにプロ格闘技と、興業を盛り上げ観客を楽しませるための演出や話題作りが、アマチュアスポーツに好ましくない影響を与えているからかも知れません。

 しかし武道の世界、例えば『日本人の知らない武士道』著者のベネットさんが示す剣道はじめ武道の世界には、ヘーシンクが体現した日本の武道精神が今もあります。文科省は、僅かな武道の授業であっても、この日本の伝統的な精神を子供たちが身に付けるキッカケになってほしいと中学校の「武道必修化」を施策したのです。

 そして、私たち町道場である高見空手の役割として、学校の「武道の授業」を補完することが挙げられます。

 高見空手には、子供たちは元より空手道に邁進する学校の先生たちもいらっしゃいますが、より多くの子供たちが武道精神に触れる機会が増えるよう、アメリカ留学時代と同じように学校・教育機関からの要請・要望には積極的に対応させて頂きたいと思います。

 道場での先生と子供たちの体験稽古など課外授業の受け入れ、先生方への空手講習、小中学校に赴いての武道授業のサポートなど、私たち高見空手がお役にたてることがありましたら、何なりとご相談ください。

高見空手の武道教育

 それでは高見空手の武道教育の一端をご紹介させていただきます。過去コラムで述べた通り、武道を深く突き詰めると言葉では言い表せない不立文字・教外別伝ですが、具体的な精神性は「高見空手 道場訓」に集約されます。

 そして稽古での師範と門下生のハイタッチな交流を通じて、礼儀礼節、孝行、惻隠の情、文武両道など指導しております。高見空手は壮年部も充実し、子供たちは人生経験豊かな壮年部はじめ大人たちとハイタッチな交流をすることができます。修行者として同じ道を志す大人との交流が、子供たちによき影響を及ぼすことは言うまでもありません。

 文武両道に関しては中里美悠初段のレポートを読んで頂けたらご理解して頂けると思います。

▼ 文武両道:中里美悠 昇段レポート
https://www.karate-do.jp/archives/224.php

 また感覚的ですが、正座・黙想・礼から始まり、正座・道場訓の唱和・黙想・礼で終わる空手道の稽古。そこには張りつめた空気と緊張感、清涼感の漂う武道特有の雰囲気、世界観が存在します。スポーツの練習には無い、凛とした武道稽古の雰囲気に触れる体験は、学校の授業では教えられられない何かしらを伝えることが出来ると思います。

 もう一つ、高見空手では大会や試合よりも日々の稽古そのものに重きを置いていますが、さらに勉強に仕事と日々の生活そのものが空手道の修行、『道』の修行として、日常生活を疎かにしては真の強さは身につかないと説いています。

■ 勝海舟『きせん院の戒め』と日本の『恥の文化』

 ところで勝海舟著『氷川清話』の「きせん院の戒め」の章に、勝海舟が自戒した一節があります。

『自分の心に咎めるところがあれば、いつとなく気が餒(う)ゑて来る。すると鬼神と共に動くところの至誠が乏しくなって来るのです。そこで、人間は平生踏むところの道筋が大切ですよ。』

※概意
自分の良心に反することをすると、後ろめたくなって気力も萎え、神仏の守護も至誠も乏しく、うだつが上がらなくなってしまう。人間、日頃の筋道やおこないが大切です。

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 明治維新の動乱期に国のため疾走した勝海舟ならではの言葉で、常日頃からの自分の心に咎めることのない私心無き生き方によって、ここ一番で「無偏無党、王道堂々たり矣」が貫けたのではないでしょうか。

 この話を古典に詳しい先輩に伝えたら、
『勝海舟は、国政では自分の心に咎めるところのない生き様で、堂々と西郷隆盛はじめ薩摩や長州と折衝した一方、私生活は女性関係がやましいことだらけ。当然、神仏の守護も誠もないから夫婦喧嘩は連戦連敗。妻から一緒の墓には入らないとまで言われ、生涯、頭が上がらなかった。勝海舟の教え通り、何事も日頃のおこないが大切だよね!』と、大笑いしてました。

やはり人間、日ごろの生き方、道筋が大切です、押忍!

 閑話休題、勝海舟の一節は、孟子の『自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん。』(自分の良心に恥じるところがなければ、千万人の敵に対しても恐れることなく向かっていく!)という「浩然の気」にも相通じ、中里師範の指導『本物の稽古には、ウソやごまかしは通用しない!』にも共通した意味があります。

 また、昔の親や先生たちは、子供を叱るとき『恥ずかしいと思わないの?』『恥を知りなさい』『(誰も知らなくても)お天様が見ている』と諭しました。自分の心に咎めない生き方とは、言い換えれば自分の良心(または天)に恥じない生き方です。

 高見空手では、この恥ない生き方が真に人間を強くすると指導しております。常日頃の良心に恥じない行動は、子供たちに自信と誇りをもたらして「浩然の気」を養い、本当の強さを身に付けた堂々として立派な人間に成長できると思うからです。当然、恥を知る子は、弱いものイジメなどしません。

 この「恥の文化」が日本の伝統的な精神性であり、「恥の教育」こそが武道教育の特性ではないでしょうか。

-武道教育の要諦-
廉恥の心は義の端なり 信義誠実を宗とせよ!
高見彰 押忍!

 次回の正拳コラムは、さらに武道精神を掘り下げて「日本武士道の源流」に、少しでも頑張って迫りたいと思います。
 

参考『きせん院の戒め』 勝海舟著「氷川清話」より抜粋

 昔本所に、きせん院といふ一個の行者があって、その頃流行した富籤の祈祷がよく当るといふので、非常な評判であったが、おれの老父が、それと親しかったものだから、おれもたびたび行ったことがある。ところが越前守が出て来て、やかましく富などの取締をせられてからは、忽ち流行らなくなった。
 それから段々とおちぶれて、後には汚い長屋に住んで居たが、誰も末路といふものは、憐れなもので気の毒だから、時々野菜などを持って行ってやった。
 この行者も、もとはなかなかのもので、肉食妻帯はおろか、間男なんか平気なもんで、一種太いところを持って居たが、かう落槐してからは、身体も気分も段々と弱り込んで来た。
 或る日のこと、おれは例のごとく何か持って見舞ひに行ったが、彼はおれに向ひ、
「貴下はまだ若いが、なかなか根気が強くって末頼母しい方だによって、私が一言お話をしておきますから、是非覚えて居て下さい。必ず思ひ当ることがあります。一体、私の祈祷が当らなくなつたに就いては、二つの理由があります。一つの理由は、或る日一人の婦人が、富の祈祷を頼みにやって来ました。ところがそれが素敵な美人であったから、覚えず煩悩に駆られて、それを口説き落し、それから祈祷をしてやりました。ところが四、五日すると、その祈祷に効験があって、当籤をしたといって礼に来ましたから、またまた口説き掛けると、彼の美人は恐ろしい眼で睨みつけ、”亭主のある身で不義な事をしたのも、亭主に富籤を取らせたい切な心があつたばかりだ。それに又候不義を仕掛けるなどとは、不届千万な坊主めが”と叱った。その眼玉と叱声とがしみじみ身にこたへた。それから今一つは、難行苦行をする身であるから、常に何か生分のある物を喰って、滋養を取って居ましたが、或る日の事、両国で大きなすっぽんを買って来た。ところが誰も怖がつて料理をする者がないから、私が自分で料理をせうとすると、彼のすっぽんめが首を持ち上げて、大きな眼玉をして私を睨んだ。私はなーにと言ひつつ首を打ち落して料理して喰って見たが、しかし何となく気にかかった。
 この二つの事が、始終私の気にかかって居て、祈祷もいつとなく次第に当らなくなったのです。それといって、何もこの二つがたたるといふわけでもあるまいが、つまり自分の心に咎めるところがあれば、いつとなく気がうゑて来る。すると鬼神と共に動くところの至誠が乏しくなって来るのです。そこで、人間は平生踏むところの筋道が大切ですよ」と言って聞かせた。
 この話を聞いて、おれも豁然として悟るところがあり、爾来今日に至るまで、常にこの心得を失はなかった。全体おれがこの歳をして居りながら、身心共にまだ壮健であるといふのも、畢竟自分の経験に顧みて、いささかたりとも人間の筋道を踏み違へた覚えがなく、胸中に始終この強味があるからだ。この一個の行者こそ、おれが一生の御師匠様だ。
 
※氷川清話は、勝海舟のリップサービスたっぷりの面白い本ですが、
「いささかたりとも人間の筋道を踏み違へた覚えがなく」を勝海舟の妻が聞いたら
「どの口が言うか!」と怒り出しそうです、押忍!
 
以下のコラムもどうぞ。
文武両道vol.1
 

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