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山岡鉄舟が教示する武士道/武道感 vol.2

※旧タイトル:「あんぱん」と「味付け海苔」vol.2

 明治維新以降の山岡鉄舟の活躍を表す言葉の一つに「苦心」があります。

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 徳川家が静岡藩に国替えとなり、多くの幕臣は職を失います。静岡藩権大参事となった鉄舟は、赤貧を洗うがごとき生活に陥った旧幕臣たちに寄り添い、親身のなって彼らの嘆きや苦しみを聞いて回り、また救うべく「苦心」するのです。

 中條金之助はじめ精鋭隊の仲間による静岡の牧之原台地のお茶事業もその一つです。その後も廃藩置県、廃刀令で失業して収入を失った武士たちの救済と、鉄舟の「苦心」は続いていきます。

 また「書」の達人でもあった鉄舟は、生涯100万枚を超える「書」を書いたと云われます。ここにも失業武士の救済の側面がありました。貧乏な鉄舟は、お金の代わりに「書」を書いて渡し、武士たちは、これを売って飢えを凌いだのです。

 末端の現場で苦心する山岡鉄舟に、いぶし銀の輝きを放つ真の武士道を感じてしまうのは私だけでしょうか。

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 明治5年、37歳となった鉄舟は、西郷どんたっての依頼で若き明治天皇の教育係として10年間、侍従することになりました。そして20代の明治天皇は、山岡鉄舟が修行を通じて「剣禅一如」を極めていく姿を身近に目撃していくこととなります。

 後に日清、日露戦争を乗り越えていく名君・明治天皇が若き日、円熟期を迎えて武道を極め大悟していく鉄舟の姿に感化されるのは想像に難くないことです。

 鉄舟は、宮中での仕事が終わると帰って剣術稽古。食後は座禅を組み、深夜2時前に寝ることはありません。廃藩置県、廃刀令によって、木戸孝允はじめ多くのサムライたちが剣を置き、剣術の鍛錬を止めていく中、鉄舟は「鬼鉄」の激しさそのまま剣術修行を怠りませんでした。

 また1と6のつく休日は、欠かさず静岡の三島にある龍沢寺の星定和尚に参禅しました。

その距離、フルマラソン3倍の120キロ!

 途中に天下の鹼「箱根」もあり、実質、松山から高松くらいの距離でしょうか。武道を極めるため週一回ペースで片道120キロを通い続けるのですから、マラソン選手も驚く健脚です。

 そして数年後、ついに鉄舟は龍沢寺からの帰路で富士山を見た瞬間、大悟するのです。

 『 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり 』

その後も鉄舟は、天龍寺の滴水和尚、円覚寺の洪川和尚によって悟りに磨きをかけます。

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 こうして明治十三年三月三十日、滴水和尚から印可を受け「剣禅一如」を極めた鉄舟は、「今度こそ」と、いまだ勝つことのできなかった浅利又七郎に試合を申し込みます。

 浅利又七郎は、鉄舟と向かい合った刹那、

「おいっ、鉄! ちょ、ちょっと待て。タイムだ、タイム」

と、いきなり試合を止めます。

 そして鉄舟を見つめ
「お前、何か悟ったな…。よくぞ、ここまで極めた」と感涙。鉄舟は一刀流13代の正統を継ぐことになりました。

この時、鉄舟45歳、時すでに明治13年となっていました。
鉄舟は、28歳から17年間の修行を経て、ついに浅利又七郎という壁を乗り越えたのでした。

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 また、天皇に侍従していた間も鉄舟の失業武士救済の「苦心」は続きました。

 同門の木村安兵衛が二度にわたるお店の火事を乗り越えて開発した「あんぱん」のヘソに「八重桜の花びらの塩漬け」を乗せるアイデアを考えて明治天皇にあんぱんを献上。あんぱんブームを起こして失業武士たちに「パン屋」を手ほどきしました。余談ですが、木村屋のアンパン宣伝の市中音楽隊に「ちんどん屋」と命名したのも鉄舟です。

http://www.kimuraya-sohonten.co.jp/

 他にも剣術仲間で山本海苔店の2代目・山本徳治郎と一緒に「味付け海苔」を考案し、同じく天皇に献納します。

http://goo.gl/MvfMvO

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 最後、山岡鉄舟は、胃がんで53歳でなくなるのですが、終焉は壮絶というべきか、恐ろしい程に見事でした。

 当時は痛み止めもなく激痛であるにも関わらず、鉄舟は穏やかで安らかで、そして毅然として…

自ら死期を悟ると、真っ白の着物に着替えて袈裟をかけ
皇居に向かって結跏趺坐(けっかふざ:坐禅)して南無阿弥陀仏を称えつつ、
妻子、親類、友人や門弟たちに笑顔を見せながら穏やかに逝ったのです。

以下、勝海舟の話です。

「山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。
おれが山岡の玄関まで行くと、息子が見えたから「おやじはどうか」というと、
「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。
その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。

おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、
鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、
なんの苦もなく答えた。それでおれも言葉を返して、
「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。

少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に
「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、
「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。

その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。

なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ。

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明治天皇は、鉄舟に惜別の言葉を下賜しました。

『 山岡は、よく生きた 』 

時は流れて明治中期。
東京の子供たちの間で、こんな蹴鞠歌が流行りました。

『 下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟 』

思わず私は、目が潤んでしまいました。

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まだまだ山岡鉄舟のエピソードを上げたらキリがありません。

正拳コラムでは、鉄舟エピソードの一端をご紹介しただけですが、
興味を持たれた方には私が先輩から勧められた本を紹介します。

<オススメ著書>

「命もいらず名もいらず」上・下 山本兼一著
「剣禅話」山岡鉄舟

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※阿部正人「鉄舟随感録」は、鉄舟を利用して著者が自分の武士道論を展開してると批判があります。

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 道場生はじめ皆様には、まずは小説「命もいらず名もいらず」をお勧めします。
小説とはいえ、構成は淡々とエピソード(事実)を羅列したり組み合せた内容で非常に読みやすくなっております。江戸末期~明治という時代背景からくる文化や価値観の違いもあり、遊郭通いの部分など、おいおいと思いますが(苦笑)、武道を修める私たちには大変勉強になります。

 また、読み終わりましたら、ぜひ稽古の後など気軽に私(高見彰)に感想やご意見などお聞かせください。私自身の感想は、次回コラムで述べさせていただきます。

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