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武を学ぶ者は経を治めざるべからず。(文武両道とは vol.2)

今回は、文武両道コラムの補足です。

 前々コラムで中江藤樹の「文と武は元来一徳」、貝原益軒「武芸の目的は、武徳の涵養にある」を紹介させて頂きましたが、その後、宮本武蔵も五輪書で次のように述べているのを見つけました。

武士は文武二道といひて二つの道を嗜む事、是道なり

 学者だけでなく純粋な兵法者の武蔵も述べていることから、武士たちが「文武両道」を宗としていたことがよくわかります。

武士の家訓

 ところで昔の‘文(学問)’の意味は、今と少しニュアンスが違い、「知識・科学」とともに「人としての道」(倫理・道徳)が大きなウェイトを占めていました。吉田松陰の「学は人たる所以を学ぶなり」の通り、「学問」イコール「人の道」と言っても過言ではありません。

 これは私も最近、桑田忠親 著「武士の家訓」(講談社学術文庫)を読んで改めて実感したところです。この本は、北条重時や北条早雲、毛利元就、黒田如水、加藤清正など、錚々たる武将が記した家訓や教訓が紹介されているのですが、内容は予想に反して戦国の世を生き延びるための厳しい「訓戒」や「掟」ではなく、「人の道」を説いたものばかりでした。また、書き方もお父さんが家族に宛てたお手紙のような感じです。

神仏を敬いなさい。
親孝行しなさい。
領民を労わりなさい。
乱暴な振る舞いはいけません。
大切なことは皆で話し合って決めなさい。
家柄に関わらず頑張っている家臣を重用しなさい。

…等々

ファイル 159-1.jpg

 更に面白かったのが、何故か家訓の本に載っていた織田信長の手紙です。これは木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の浮気に苦しむ妻;ねね(おね)宛のもので、唯一、現存する信長直筆の手紙です。

▼ 織田信長がねねに宛てた手紙;現代語訳

 そなたが仰る通り、この度はこの地へ初めてやってきて、お会いできて嬉しく思いました。特に頂いた土産物の美しさはとても目に余るほどで、筆で表現しきれるのではありません。祝儀代わりにこちらからも何かをあげようと思いましたが、そちらからあまりに見事な品を持ってこられ、特に志を示す方法もみあたりません。ともかく今回は品物を贈るのはやめておきます。また次ぎに来た時に、お返しをしましょう。

 とりわけそなたの容貌、容姿は、いつぞやお会いした時、十であったものが二十ほどに見上げたものに美しくなっています。藤吉郎がしきりとそなたを不満であると申しておるとのこと。言語道断、全くけしからん事です。どこを探してもそなたほどの女性は、再びあの禿鼠(はげねずみ)には求め難い。これから後は、立ち振る舞いに用心し、いかにも正室らしく重々しくふるまい、悋気(嫉妬)などに陥ってはなりません。

 とはいえ女の役目もあるので、夫の女遊びを非難してもよいが、言うべき事を全ては言わないでもてなすのがよいでしょう。なお、この手紙は藤吉郎にも見せるように。

ファイル 159-2.jpg

 信長は、女性が読みやすいよう殆どひらがなで書き、わざわざ最後に「天下布武」の落款まで押しています^_^;

 この手紙からは、信長の繊細で女性をいたわり大切にする優しい男性像しか伝わってきません。しかも部下の妻から家庭の悩みを相談される戦国武将って…? ある意味、ここに本当の織田信長の姿、他の武将にはない魅力と凄さがあると思いました^ ^
 また、信長はじめ家訓を残した武将たちもそうですが、私たちの思っている武将たちの人物像は、小説やドラマによって作り上げられたもので、だいぶ実物とは違うのかもしれません。

 しかし、ねねから信長の手紙を見せられた秀吉のリアクションを想像して、思わず笑ってしまいました^_^;

「武道」の要件

 閑話休題、武士たちが志した文武両道の『文;学問』(人の道)について、吉田松陰が「未焚稿(みふんこう):学を論ずる一則」で次のように述べています。

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兵を学ぶ者は経を治めざるべからず。何となれば(兵)は凶器なり、逆徳なり。用ひて以て仁義の術を済(な)さんには、苟(いやしく)も経に通ずる者にあらずんば、安(いずく)んぞよく然らんや。

・概要
兵学を学ぶ者は経学(けいがく)を修めなければならない。凶器にも逆徳にもなる兵法を仁義の術として活用できるのは経学を修めた者だけである。

※経学;儒教の四書五経など経書で(人の道)を学ぶこと。

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 松陰の言う通り、『武』は「凶器・逆徳」にも「仁義の術」にも、どちらにもなります。そして『武』を「仁義の術」にするのは『人の道』です。だからこそ武士たちは「武文両道」でなく「文武両道」と 、あえて‘文’を先に立てたのではないでしょうか。

 現在、「文武両道」の‘文(学問)’の文字からは「人の道」の意味が薄れて「知識・科学」中心になりました。

一方 ‘武’に於いても昨今の格闘技ブームの影響からか、強さやテクニック、勝敗ばかりが論じられて競技偏重となってしまいました。しかし、まだまだ本物の武道団体も存在します。

 私たち高見空手もまた、古(いにしえ)の文武両道に倣い「人の道あってこその武道空手」として、礼に始まり礼に終わる稽古、試合後の残心(残身)など、道心(みちごころ)を以て空手道に励んでいます。

 武道である以上、強さや技術、実戦性は言わずもがな。なぜ高見空手の師範や先生方が「惻隠の情」や「孝行」「礼儀・礼節」「信義」などの指導に重きを置くのか。なぜ道場訓が経書(孟子)ベースなのか。皆さまには‘武道’を掲げた高見空手の取り組みをより深くご理解して頂けたかと思います。

~ 武を学ぶ者は経を治めざるべからず。 ~
高見彰 押忍!
 
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